
普通を演じる(ふつうをえんじる)
まずは、5月31日(金)〜6月2日(日)まで行われた、江戸村公演『雨降って地固まる』にご来場頂いた方々、誠にありがとうございました。
さて、いよいよ今週7日(金)は『杮祭2024』!
そして今週から市川富美雄さん、實川加賀美さんをお迎えしての公演! お楽しみに!
さて、今回は『普通を演じる』ということについて。
少し前のブログで書こうと思って書けなかったこと。
僕たち劇団紀州のお芝居には、様々なジャンルのものがあり、様々なやり方のものがある。
脚本の世界観を大事にして、台本の台詞を一言一句間違えないように演じるものや、古典的な、歌舞伎とか新派のようなやり方のものなど様々である。
かと思えば、𠮷本新喜劇のようなコントベースの軽演劇のようなお芝居もある。
『昭和の忘れもの』(R6.3.30~31)なんかまさにそれ。
大方の筋だけ決まっていて、あとは好きなように喋っていいよ、みたいなお芝居。
いわゆるエチュード形式。
【エチュード】
デジタル大辞泉の解説によると、
- 1 美術で、絵画彫刻制作の準備のための下絵。習作。
- 2 音楽で、楽器の練習のために作られた楽曲。練習曲。
- 3 演劇で、即興劇。場面設定だけで、台詞や動作などを役者自身が考えながら行う劇。
とのこと。
ふむふむ、楽器を使って、曲を弾きながらお芝居をするのをエチュードというのか。
(いや、違うだろ)
この“エチュード”は、よく演劇のレッスンとして用いられます。
場面と設定だけ決められて、あとは役者自身が好きなように動いて、物語を展開していくというもの。
師匠のダメ出しの中でよく使われる言葉がある。
「“普通”に芝居せえ」
師匠に演技指導を一度でも受けたことがある人は、必ず言われたことがあると思います。
はじめ、この“普通”の意味が分からなかった。
普通? いやいや、お芝居している時点で普通ではないでしょ!
お客さんの目の前で、急に泣いたり怒ったり、
ましてや全身真っ白に塗って女性の格好をしていることのどこが普通なんだ!?
(なんか文字で書くとより異常さが際立つ気がする)
ただ、師匠の言っている意味を理解しないことには、成長はない。
ということで、とりあえず「普通」という言葉を調べてみた。
【普通】
デジタル大辞泉の解説によると、
[名・形動]
- 1 特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。
「朝は六時に起きるのが普通だ」
[副]
1 たいてい。通常。一般に。
「普通七月には梅雨があがる」
2 (「に」を伴って)俗に、とても。
「普通においしい」
……。
ん?
“ごくありふれたように”芝居する?
“たいてい”芝居する?
理解するつもりがますます謎が深まってしまった。
(点線)
僕が『昭和の忘れもの』というお芝居で演じていた“石川敏明”という役。
一言で言えば、スケベで素っ頓狂なお爺さん。
滅多に人を褒めない師匠も、この役を演じるときだけは褒めてくれる。
(何百という役を演じてきてこれだけしか褒められないのか…)
「お前は普通に芝居するなあ」
出た! 普通!
いやいや、“普通”とおっしゃいますけど、僕舞台の上で、かなりセクハラなことしてますよ?
必要以上に女性の身体を触ったり、ことあるごとに「抱いてやろうか」などと言って、相手役の方やお客さんをドン引きさせてますよ?
舞台の上じゃなかったら、何かしらの法律に引っかかってますよ?
(舞台の上でも問題がある気がする)
どうやら、“普通”という言葉は辞書的な意味ではないらしい。
そして師匠は加えてこう言った。
「“自然”でするからいいんだよ」
ん? 自然??
僕のお芝居は大自然に囲まれたような、マイナスイオンを発しながら芝居をしていると言いたいのだろうか?
ただ、師匠の言っている意味を理解しないことには、成長はない。
ということで、とりあえず「自然」という言葉を調べてみた。
【自然】(しぜん)
デジタル大辞泉の解説によると、
[名]
1 山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。
「郊外には自然がまだ残っている」
2 人間を含めての天地間の万物。宇宙。
「自然の営み」
3 人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。
「野菜には自然の甘みがある」
4 そのものに本来備わっている性質。天性。本性。
「人間の自然の欲求」
[形動][文][ナリ]
1 言動にわざとらしさや無理のないさま。
「気どらない自然な態度」「自然に振る舞う」
2 物事が本来あるとおりであるさま。当然。
「こうなるのも自然な成り行きだ」
3 ひとりでにそうなるさま。
「自然にドアが閉まる」
ふむふむ、僕のお芝居にはそのものに本来備わっている性質であり、舞台上で繰り広げられた数々のセクハラは本性だということか…。
師匠は僕のセクハラをするさまを“そのもの本来のありもままの状態”だと言っているのか。
まあ、否定はしないが…。
(否定せい!)
とまあ、茶番はさておき。
結論を言うと、「言動にわざとらしさや無理のないさま」のことを言う。
誰かが誰かを演じる(表現)するということは、その時点で“普通”であるはずがないのです。
だって“市川福之介”と“石川敏明”は別人なんですから。
ただ役者というものは、演じているときは、できるだけ役として舞台の上で生きなければなりません。
「次の台詞なんだっけ」とか「この台詞でこう動かなきゃ」とか
「こうしたらお客さんにかっこよく見えるかな」とか頭の中で考えてしまうことは、
それは“石川敏明”の思考ではなく、“市川福之介”の思考であり、
そんなことを考えながら演じてしまうと、舞台上で役を生きることができません。
ではどうしたら、役を生きることができるか。
そのためには、まず“石川敏明”という人物を知る(作る)ことをしなければなりません。
容姿、声、などの外見から、
性格、どういう思考をしているか、どういう人生を歩んできたかなどの内面を含め、
全てのことを知った(作った)上で、そこから“市川福之介”の思考や感情を削っていく。
役に近づく、憑依する、役を入れる…。
色んな表現方法はありますが、どれも同じこと。
またタイプとして、
市川福之介 → 石川敏明 のように役の思考に出来る限り近づくタイプの役者さんと、
市川福之介 ← 石川敏明 のように役を自分に近づけるタイプの役者さんがいると思うけど、
これもどちらも同じ。
役と役者自身。
ふたりの感覚のズレ(距離)をできるだけ近づけた状態から発せられた言動が、
“自然”であり、“普通”であるということ。
その言葉には役としての嘘がない。
(正確には嘘があるように見えない)
だから大事なのは台詞を覚えることなんかよりも、役と役者自身の距離を縮めることなんだよ。
それがいわゆる“役作り”と呼ばれるものなんだよ。
重ねていいますが、
「この台詞はこう喋ってやろう」とか、
「こう動いたらこう見える」とか考えながら、お芝居をしている時点で、
それは役者自身の思考が働いているからダメということです。
とはいえ、
今は分かりやすいようにあえてダメと言いましたが、
実際は「お客さんにどう見えるかな」という思考をもつことは、必要不可欠であり、
そのことは常に考えて演じなければなりません。
ただそこまでを広げると、今日の話が分かりづらくなる方もいると思うので、
今は割愛してまたの機会に。
その世界に溶け込んで、舞台の上で、ただ役として生きる。
それが“普通を演じる”ということ。
そして師匠は最後にこうも言った。
「お前が歳をとったらこうなるんだろうなあ」
……。
僕が?
スケベで素っ頓狂なお爺さんに?
……。
まあ、否定はしないが…。
(否定せい!)
では、また。